昭和54年11月15日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けててゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
この御理解は見易いやら難しいやら分からんような表現ですね。最後に見易う信心をするがよいとおっしゃる。一番初めにも信心は見易いものじゃが、氏子から難しうすると仰っておられる。もう見易い見易いと初めから最後にある。ところが中を読んでみるとなかなかそうではないですね。三年五年では迷いやすいと。我ながら我心をまつると。この辺になってくると我ながら我心がまつれれる。
なら十年も経ったら三年五年ではなかなか迷いやすいけれども、信心が十年も続いたら我ながら我心を祀れる位の信心になったら、確かに信心は見易いのだ。だからこの御理解は真中の所を先に頂かねばならん事を感じます。そうすると信心が確かに見易いもんだという事になります。私は今朝方昨夜は日田の、大分の共励会でしたから、文男先生がゆんべ一時半頃でしたでしょうか、私の部屋にやって来ましたのが。私も違わん来るじゃろうと思うて心待ちに待っておりました。寝むらんで待っとりました。
して今日はもう来んじゃろと思いよったら一時半でした。どうしてそげん遅なったの、ち言うたら、昨日はなんか末永先生の送別の宴か何かで一杯出よったから、遅なったというわけなんです。それからまた、ですからもほんの足揉み終わってから帰ったのですから、ほんの僅かしか寝てないでしょう。けれども一寸そのトロッとしたと思った時に頂いたお夢なんですけども。『私はあのう最終のバスという時間の頃に、久留米まであのう神様から行くようにお知らせを頂いて久留米に出かけようとした。
そしたら家内と言うても、私の家内じゃないですもん。それが私の家内のような、ま気の利いた女子しが、その人の妹さんというのと二人で後を追いかけて来てから、今日やら行かんでん、あなた最終のバスですから、明日の朝早よ行きなさったらどうですか、というわけなんです。それでも神様にお知らせを頂いて行くのだから、あのうどうしてもこの最終バスで行くとこう言うとる。またその私の家内ではない家内が、その悋気心を起こしておるらしいのです。
もうそげなこつ言いなさるなら私も一緒に付いて来るとこう言うわけです。そしたらその妹の方の人も、ほんなこつ私も一緒に行こうとこう言う訳です。ちょっと着物ば着替えてくるけん待っとって下さいと言うて、まあジダ走りにして自分の家へ帰って行きよるところでした。私は後から見て馬鹿な女子じゃなぁ分からん女子じゃなぁ、と言いよるところで目が覚めた。
どういう事じゃろか、と私は思わせて頂いたんですけれども。まぁ私の修行中の時分には、もうそれも夜も夜中もない様に、神様のお指図通りに動いておりましたから、特にあのうまぁ久留米の光橋先生が出ます前なんかは、もう夜の御祈念終わってそれこそ最終のバスでしたが、久留米に出ろという事を頂いてま出らして頂きましたが、それこそ夜もなからなければ夜中もないように、例えばんなら私が出かけるというとに、なら家内がいちいちそれに悋気して付いて廻りよったら、今日の合楽は開けてないです。
これは私となら家内の中に信じ信じられとるものがあったからなんです。なら私の家内ではない家内がのような例えば、気は利いとってもさぁ私が一寸夜中に出るち言えば、もういちいちなら私も付いてくるち言うごたるなら、本当に私は信心は出けてないです。』そしてま今日の御理解を頂いて思う事はです。信心を見易うする事の為にはまず自分が信じ信じられる私にならなければならないという事。
これは夫婦でも親子でも、んならこれはあのうお客さんという場合でもいいでしょう。周囲の人からと言うてもいいでしょう、けれどもまずはね。家内に信じを信じ信じられる。親に信じ信じられる。もううちの家内が言う事は間違いがない。うちのお父さんに付いてさえ行きゃ間違いはない、と言う様にです。やはりそこんところからあのう見易い信心が出来てくるようになると思うですね。
参ろうと思いますばってん、もう家内があなたやかましく言いますけんと、それじゃやっぱ信心が出来ないでしょう。私が今日夢の中に頂いたように、なら私が出て神様のお知らせをと言うて、なら私が神様のお知らせを頂いて、なら久留米まで行くという。どういう目的の為にいく何処に行く、という事もないですからね。ただ久留米に行けとおっしゃるから、ハイと言うて久留米に行くだけの事ですから。俺は実はこんな訳でこんな訳でと言いわけするわけにはいかん。
ただ久留米に行くだけだからね。それをです、なら私の修行中の時分には。それこそ一言も言う事はなかったです。私も付いてくるてんなんてん言うた事はなかった。これはなら私と家内の中に交流するもの。いうならば信じ信じられておる、という世界があったからね。それが可能であった。いうなら見易う修行も出けたという事なんです。まずね修行をする時に,いうならば周囲がそれにとやこう言う様な事では、いうなら第一有難い信心を頂こうとするその修行すらも出来ません。
信心を見易うする為には、まず信じ信じられる、勿論その信じ信じられるという事が、神様を信じ神様を信じられるから、信じられるようになった時、初めて信心が見易うなるという事になります。神様から信じられる神様を信ずる。もう恐らくその心の中というものは、我ながら我心が拝みたいような心に、段々修行のおかげを以て自分の心というものが神様へ、そのように向かっておる事であろう。自分の心を祀れれる拝めれれるような心の状態が開けて来ておるだろう。
信心はだからまず信じ信じられるところから、それはいうなら一番身近な家内、又は主人子供、親、ね、から信じ信じられる、でなかったら修行がしにくい。修行が難しうなって来る。信心が難しいという事は修行が難しい、という事なんです。ですからいうならば信心修行をするという時には。神様が段々信じられてくるに従ってその修行の尊さとか有難さとか。いうならば修行の楽しさが生まれてくるようにだんだんならなければ、信心が見易いという事にはなってこない。
昨日足を揉んでもらいながら、文男先生と話した事でしたけれども。小郡の石川さんの御主人が何々癌という癌ので、東京の方へ一遍行かれたり、又はいろんな事情やら問題がありましたから、またこちらへ帰って来られたり、二軒病院にかかられたんですけど、二軒ともやはり癌と診察されたんです。あれはレントゲンとそれから血液に出て来るんだそうですね。レントゲンにもはっきり出て来るんです癌が。それから血液の中にも、その癌のしるしが出て来るんだそうです。
二軒ながら癌というので、まぁ神様のおかげを頂いて親子であのう健二郎さんと一緒に、もう一生懸命お参りをして来ました。いろいろな訳もありますからもう一生懸命でした。そして途中から東京行になったり、また帰って来たりして、今度あの戎浦さんが婦長をしておられるあそこのなんとか島田病院かね。あちらへ入院されたんです。して昨日が一日早くなって手術をされる事になったんです。
昨日一昨日でしたか、昨日親子でお礼に出て、前の晩に遅く電話がかかって来ておりましたが、昨日その御礼に出て見えましてから、あのうもう本当に驚きですけれどもね。開けて見たら癌ではなかったち言う。そして他のまぁこれで助かると、言った様な気がしたわけです。まこれからも難しい事らしいですけれどもです。その事をまぁ文男先生と昨夜話した事でしたけれどもね。こういう時におかげを受けた者が、私がつはあのう癌じゃなかったげなとおかげ頂いてという人です。
癌だったけれども神様がまつり替えて下さったというね。これはここの幹三郎の場合なんかが、そうでしたでしょうが。もうこれは肉腫癌ならまだだけれども肉腫だと診察されたんです。もうそして九分九厘は助からんと言われたんですね。それが実際開けて見たらその癌ではなかったという事になったんです。もうそれこそ世にも不思議な病気という事になって、まだ文献にないというような病気だとまぁ名前は、難しい名前が付けられましたそうですね。
けれども私はやはり癌であったものが、そういう神様が祀り替えて下さったと信じております。こういう例いくらもあるんです。ここでは。それをおかげで開けて見ましたら癌ではございませんでした、程度で御礼を言う人。癌であったけれども神様がまつり替えて下さったとそれが思えれる。それが信じれれるという事が、文男さんその人の信心の程度だよと言うて話した事でしたね。だからね私共はその神様の働きのいうなら世界というものは人間、人知人力では分からない世界なんです。
だからそれを信ずると言うのが、なら疑えば限りがない。神様とてもいうならば姿、形があるわけじゃない。声ものを仰るわけではないから、疑えば限りがないけれども、その限りのない神様を限りなく信じれれるという所にです。いうなら信じ信じられる。神様からあの氏子はと信じられる。私共も神様をその疑えば限りがない。癌じゃなかったげな、ばってんおかげ頂いたというおかげ頂いたと。癌であったけれども神様がそれをまつり替えて下さる程しの力を持ってござる神様だと信じる。
そこからその人の本当の信の力、そこに神様から信じ信じられる世界が開けてくるんす。私共の一日の上にもです。あっふがよかったおかげ頂いた、という程度の事からです。ふがよかったんじゃない。もう一から十まで神様のおかげを頂いて、おかげを頂いたんだ。だからある意味でですね。ここでぁもう永年信心をしておられる方達は、まず薬などとは申しませんよね。
決して薬を飲んじゃ出けんとか、医者に掛っちゃならんとかと言う事じゃないけれども、薬は毒だという観念。だからもし万一飲まなんならん時には、どうぞ毒薬変じて薬になるような祈りというものを持って飲めよ。又は注射なら注射医者なら医者にかかれよ、と言われておりますけれども。どうしても薬を飲んだり医者に掛ったり」すると、はぁあっちのお医者さんな上手じゃったとか、あの薬は効いたとかと言うて神様のおかげが半減してしまう。いいやもう神様のおかげはちょこっとばっかりになってしまう。
もうこれ一番分かる事はお供えで分かる。本当に神様のおかげで助かった、と言うなら薬を飲まずに、例えばんならおかげ頂いたと言うなら、本当におかげと思うとるから一万円なら一万円のお供えが出来るわけです。はぁ医者にかかったと思やあと思うて五十万も百万もお供えが出来るわけ。ところがねその薬を飲んだ医者にかかったち言うならば、あっち医者は上手じゃった。あの薬は効いたと思うからちゃあんと、もうそれこそ。まあ千円なら千円で片付けっしまうでしょうがね。
心の中にはあの薬が効いた。あの医者が上手じゃったと言う様なものがあるからなんです。だからそういう意味合いで、本当に神様を信じれれる、いうなら信心が見易うなる、というおかげを頂く為にではないですけれども。為にでも成程私共が本気で医者や薬には頼らん、というものがなからなければ、そういう大変な大事な事が分からん頂けない頂きにくいです。皆さんここん所をいうならば、いよいよ神様が信じられる。神様からも信じられる。初めて信心が見易うなる。
そういうところを例えば繰り返し、んなら三年五年の信心では迷いやすい。確かにそうです、それをんならもう本当に、ま神様一本神様一途にだんだん信心を進めさせて頂いてね。今の石川さんのような場合であっても、本当に神様の偉大力には畏れ入ってしまう。あぁいう二軒の病院がレントゲンにも血液にも出ておった、その癌が消えてなくなっていって、他の軽い病気にまつり替えて下さってあった。
ま何と神様のお働きの偉大さには、もう畏れ入ったという信心を頂けて、それがだんだん神様を信ずる力になってくるでしょうが。開けて見たら癌じゃなかったげな、おかげ頂きましたというおかげは、もう軽ぅいおかげになるという事は神様をも軽く頂いただけしかならんのです。神様の働きには畏れいる。そういう畏れ入った生き方から、いよいよ信心にならしてもらい、修行が楽しうなってくる時に、始めていうならば信心が見易うなる。はぁ朝参りはじゅつなかね。
まこげな修行を思い立ったけれども、なら今合楽で言われるのは、日参教聴心行家業の行とおっしゃる、そこからいうならば日勝り月勝り、代勝りのおかげが頂かれる。信心の真を現わしてはそれが力になりそれが御徳になる。だからそういういうならばあのう修行にね。お互いが取り組んで、その修行をさせて頂いく事が有難いと、いう事になって来なければ、信心は見易いという事じゃないでしょうが。信心に修行はつきものと仰るのだから。修行が楽しいもの有り難いものになって来なければいかんのです。
昨日ある人が御造営の事でお届けをさしてもろうた。まぁ私達の様な給料取りじゃどうにも出来ない。だから出来ない出来なち言いよったら、ほんなこつ出けんばと私が言。私昨日聞いた話じゃけれども、ある若い今一家中で信心する一家がありますね。まぁある人がそこに行っとったげなら、米屋さんが来たげな、して米屋さんが配達して来た所へ、したらその米が何とかという、もうあの一番特等米普通米の五割も高いげな。
ほうこの人どんなこげな米ば食べよるじゃろかと思うた、という話を私は聞いとった。だからその、今昨日私どんごた給料ではどうにもと言うからその話をさしてもろうた。本当にもそれこそ、このチャンスを逃したら後で後悔するよと言われる位な、今合楽では大事業が起こっておる。お広前いわば合楽信徒会館の建設というものが、今たけなわである。さあ人後に落ちないような一つ修行どもさしてもろうて、おかげも頂こうと発心しなければです。私は合楽の信者じゃないと思うですね。出来る出けんは別です。
だからね例えばんなら一億円のお供えをする、という人さえあるけれども、ただ口だけやらで言うだけじゃなぁにんならんとです。だから給料取りで出けんというならです。なら今迄例えば私は聞きました事ですけれども、その特別の米は普通の五割高いんだそうです。かと言うて今度はあのうくず米ち言うのがあるそうです。まくだけが半分位入っとる米だそうです。これまた半分値に安いそうです。もし私がそういう立場にあったならば、普通米を食べよっても恐らくそのくず米を頂く事じゃろ。
しかもそれをお粥にして頂くじゃろうと私は思いました。皆さんどうですか。もう他に別になあにんせんけん、米だけ位よか米食べなん、と言う様な根性では身を削る、という事にはならんでしょうも。タバコ飲む者はタバコをいっときやめようと。酒飲む者なら酒もいっちょ慎もうと。これが身を削る心を削る。もう額じゃないてそういう修行がね。不可能な事が可能たらしめる働きが起こってくる。私はこれを聞いてから実にびっくりしました。まぁだその人が特等米を食べる柄じゃないからです。
それで御造営のおかげを頂きたいと、言うたって儲かったらおかげ頂こうと、言った様な事では、今日私が申します神様を信ずる事の為の修行にはなりません。ほんなこてね。あの御造営、あの合楽会館が出来た時には、あの普通米からあれじゃ勿体ないと言うて、一家中の者がくず米を頂いた。あれをお粥さんにして頂いた。そして一家中の者が身を削り心を削りしておかげ頂いたという事が、どの位神様を信ずる働きが、次に生まれてくるか分からん。
そういう修行も出来るような、今は合楽にはそういう時なんだ。始めて神様を信ずる事の出来る働きが生まれてくるでしょう。また神様があの氏子はと目を付けて下さるでしょう。自分の身も削らずしてと言う。おかしいですね。だから私は給料取りだからと言うて、○○さんあの出来んちいう事はなかばいち。自分の身を削んなさいと言うて、ま昨日は申しました事でしたけれども。
そういう中から神様を信じ、又は信じられる働きが生まれて来て、初めて信心は見易いものじゃがという事になる。この後にも先にもね。信心は見易いといいまた見易う信心をするがよいぞと最後に締め括ってありますから、いかにも見易いように表現しておられるけれども、その内容を読んで見るとです。三年五年ではまだ迷いやすいと、言う迷いやすいような中にあった時にです。
ま今日は聞いて頂いたようなところを通って、神様のもうその偉大力にはもう畏れ入った、という畏れ入ったところから神様をいよいよ。疑えば限りがない形もない声もないのだから。その神様を信じて疑わない精神が心が生まれてくる。そこからまた神様から信じられる。信じ信じられる仲が生まれたときに、初めて信心は見やすいものだ問い風に思います。
どうぞ。